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2008.08.29 free 毎度、足助です。

ちょっと前になるのですが、
立川志の輔らくご「ひとり大劇場」に行ってきました。
今回は国立劇場大舞台で、歌舞伎役者の長噺とあって
噺だけに終わらず、舞台演出をフルに使っての演目でした。

例えば「仲蔵、花道を通って…」の件で花道にパッとあかりが灯る。
客が思わず幕揚の方を見る。しかしそこには誰も居ません。
それもそのはず、だってこれは「落語」ですから。役者なんているワケがない。
役者が見得を切る件では、舞台に「チョーンチョンチョンチョン…」と
小気味良く響く附け打ちが鳴る。もともと歌舞伎もやる劇場なので
ものすごくキレイに音が通ります。

そんな数々の「良い意味でらしくない演出」が
落語に抱いてた固定観念をくつがえしてくれて
おおいに泣いて笑って、大満足の一日だったのでした。



で、ここで終わらず、やっぱりゲームの話に。



舞台に役者が居て、光や音の効果があって、泣かせて笑える娯楽なら
画面にキャラが居て、光や音のエフェクトがあって、泣かせて笑えるゲームだって
熟成されていけばそのうち、落語みたいに立派な文化/伝統芸能になりえるんじゃあないか
と思ったのです。(落語と違って、まだ誕生して四半世紀そこらの文化ですが)

商業としても、娯楽としても、文化としても
三本柱がガッチリ組み合わさっているのを見せ付けられて
そんな大仰な事を考えてしまうくらい
すげぇショックをうけましたよーというお話。


>余談
立川流落語家元、立川談志は古典落語と現代落語の時事性について
「かつて江戸落語などで『粋』とされてた物事は現代のそれとは違う」
と、著書にて指摘しています。
(失礼な話、うろおぼえなので足助の曲解かもしれません)

あくまで「違う」であって古典を貶めるものではないのですが
これってゲームにおいての古典(拡縮回転スプライトとか、ラスター)にも
いえることなんじゃあないかなと。先人が編み出してくれたそれを
新しい何かで「使う」には、どうやって表現すべきなの?っていう。

今回の落語体験におきましては、古典を使って新しいことをするという
「芸道」探求の姿勢に学び「ゲー道」を知り改める
・・・といった次第であります。どっとはらい。(落ちてない)

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自社が開発を行ったゲームの宣伝、自画自賛、そして反省会も交えつつ、ほとんど仕事と関係ない事ばかり書いていくでしょう。きっと。
スタッフ持ち回りで狭く浅く、そして鋭く迫らない流浪のブログ風公式サイトです。

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